恐れるな、消える事は無い、この暁にはためく紅の旗は
消える事無く我が祖国の上に燃える最後の火
それは我が民族の星、光瞬いて
それは我がもの、それは我が民族のものなのだ
顔をしかめるな、私が犠牲になろうとするのに、優しき新月よ!
英雄的な我が民族に微笑みたまえ、何を激す、何を怒る?
貴方がそうせぬのなら、流された我々の血は後に許されよう
正当な権利なのだ、真実(の神)を信じる者、我が民族の独立は!
“İstiklal Marşı” National Anthem of Turkey Download
JPN
トルコ共和国(トルコきょうわこく)、通称トルコ(土耳古)は西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨー ロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシアと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。 国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民の約99%がイスラム教(宗派はスンナ派が多数)を信仰するため、日本の地域区分では地理的な位置と、欧 州即ちキリスト教というステレオタイプから中東、西アジアに含めることがほとんどであるが、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団 体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることがあり、NATOに加盟しており、現在欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。
国名
トルコ語による正式国名は、 Türkiye Cumhuriyeti(テュルキエ・ジュムフリイェティ)(ヘルプ・ファイル)、通称 Türkiye(テュルキエ)である。 公式の英語表記は、Republic of Turkey。通称 Turkey(ターキー。七面鳥を意味する単語と全く同じ綴りおよび発音だが、文章の場合国名の頭文字は大文 字、鳥は文頭に来ない限り頭文字が小文字のため区別される)。 英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、この国家を Turkey, Turquie など、「トルコ人 (Turk, Turc) の国」を意味する名で呼んできたが、トルコ共和国の前身で、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」、「オスマン家の王朝」などの名 称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。トルコ語で「トルコ人」を意味する Türk にアラビア語起源の抽象名詞化語尾 -iye を付した Türkiye は近代になってヨーロッパから「トルコ人の国」概念を逆輸入して考案された名詞である。 第一次世界大戦後、国土が列強に分割されほぼアナトリア半島のみに縮小したオスマン帝国に代わって新しい政権を打ち立てた人々は、初めて Türkiye を国名とし、かつてのオスマン国家は、他称においても自称においても「トルコ人の国」であるトルコ共和国となる。 なお、Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀こ ろにはすでに使われていた民族名だが、語源は明らかではない。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。 日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコの」を意味する形容詞turcoに由来する。漢字土耳 古は、この音を中国語で音訳した「Tŭ’ĕrgŭ」に由来する。
また、男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「ラク(トルコの蒸留酒)が死因でないと診断せよ」と言い残したという。
ケマルが死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにケマルの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。
歴史
トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古代からヒッタイト・フリュギ ア・リディア・ビザンツ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人 が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、 15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国 を打ち立てる。 19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により完 全に解体された。しかしこのとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して 戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。 1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の 世俗主義国家トルコ共和国を建国した。第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟す る。国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきた(ヨーロッ パ評議会への加盟、死刑制度の廃止など)が、その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、アルメニア人虐殺問題、ヨーロッパ諸国の反ト ルコ・イスラム感情などが大きな障害となっている。
政治
1982年に定められた現行の憲法では、世俗主義(政教分離原則)が標榜されている。三権は殆ど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義、他)を達成す るためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立 法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数550名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に 基づいている。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されてい る。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止と言った政治的な事項についても判断できる。 政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議 席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のために、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発 展党 (AKP) と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党 (CHP) の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総 得票率47%を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党 (MHP) が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。 独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。 2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党・公正発展党が世俗派野党・共和人民党などを押さえ勝利した。 外交面では、北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国として伝統的に西側の一員である。 また、外交面では欧州連合 (EU) への加盟を長年の目標としてきた。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する 改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からのEUへの加盟交渉の開始 が勧告された。しかし、その後のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。 国父ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治に おける重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀 総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議 (Milli Güvenlik Kurulu) が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支 えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」 と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導 の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴び た。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、軍が最早以前のように安易に 政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部にこもったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。
軍事
トルコには軍事組織として、陸軍・海軍・空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)・沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。トルコは良心的兵役拒否を 認めない完全な国民皆兵制度(ただし男性のみ)をとっているため兵員定数はないが、三軍あわせておおむね65万人程度の兵員数である。また、ジャンダル マ・沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下にはいることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを 行っている。 指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長 (Genelkurmay Başkanı) に属すると憲法に明示されており、戦時においてはトルコには文民統制は 存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、トルコ軍は歴史的にも、また現在においてもきわめて政治的な行 動をとる軍隊であり、また、国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金等からの歳入であるなど、平時においてもトルコ軍に対 する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば第四権と言った性格を持って来た。 軍事同盟には1952年以降NATOに加盟し、1992年以降はWEUに準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまでCENTO加盟国でも あった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年には実際にアメリカ合衆国・イスラエ ル・トルコの3国で共同軍事演習が行われた。 トルコ南東部においてはPKKとの戦闘状態が長年続いている。特に近年はイラク北部に拠点を構えるPKKを掃討する目的で、陸軍によるイラク国内への侵攻 や空軍による越境空爆などがしばしば実行されている。
地方行政区分
トルコの地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県 (il) と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事 (vali) が置かれ、県の行政機関 (valilik) を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。 県の下には民選の首長を有する行政機関 (belediye) をもった市 (şehir) ・郡 (ilçe) があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町 (belde) と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村 (köy) がある。イスタンブル、アンカラなどの大都市行政区 (büyük şehir) は、市の中に特別区に相当する自治体として区 (ilçe) とその行政機関 (belediye) を複数もち、都市全体を市自治体 (büyük şehir belediyesi) が統括する。
地理
国土は黄土色に染まっているヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡 によって隔てられる。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン 国境近くにはヴァン湖とアララト山がある。国内最高所は標高5166mである。 気候帯は内陸は冷帯気候・ステップ気候で夏は乾燥し、冬は寒く積雪が多い。地中海沿いなど海に近い部分は地中海性気候で、オリーブなどの生産が盛んであ る。 トルコは国内に多くの断層をもつ地震国であり、1999年にはイズミルからイスタンブルにかけてのマルマラ海沿岸の人口密集地で大規模地震が起こり、大き な被害を受けた。なお、他の地震国の多く同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。
国民
トルコ共和国の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返し てきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。 トルコ共和国以前に存在した多民族国家のオスマン帝国では、このような地域事情を反映し、民族や出自に対する意識が希薄であった。代わりに各自の信奉する イスラム教やキリスト教と いった宗教こそが、永らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としてのトルコ共和国成立に伴い、 国内における民族意識の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常 に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、トルコと隣国ギリシャ間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因とな り、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結された住民交換協定では、トルコ国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に 住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。 こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてト ルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると 同時にその時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共 和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトル コ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。 少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人な どが共和国成立以前から東部を中心に居住している。特に、クルド人はトルコ共和国内でトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は数百万人とも、一千万 人を超えるとも言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ 人」なる呼称を用いるなど、差別的に取り扱いしていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられ ることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解 禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党 (DP) とは別組織)ザナ党首の釈放と同日に、国営放送第3チャンネル (TRT3) においてクルド語放送が行われた。 なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南 東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、トルコ国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分 布している。実際、クルド系政党民主国民党 (DEHAP) はトルコ全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降は全国的な農村部から都市への移住が増加にともないクルド人 も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降もっとも 多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブル県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準 の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつ ける見方も存在する。 宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム(イス ラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。 その結果、一般的にはムスリムを信奉するトルコ国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー 派の信奉者がトルコ国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を越えるとも言われている。 その他の宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国からトルコ共和国成立までに至 る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。 一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブルに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコ に東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。トルコ国内にある東方正教会の神品を養成するためのハルキ神学校は1971年から政府命令によって閉 鎖されており、東方正教会へのトルコ政府からの圧迫の一つとなっている。
文化
トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。 これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくはトルコの世界遺産を参照)。 トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受けあいな がら発展してきた。 例えば、世界三大料理のひとつとも言われるトルコ料理は、その実ではギリシャ料理やシリア地方の料理とよく似通っているし、伝統的なトルコ音楽のひとつオ スマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブルに暮らした作曲家が残したもの である。 建築は、イランとビザンチン双方の影響を受け、トルコ独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナン であり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。 俗にトルコ風呂などと呼ばれている公衆浴場文化(トルコ本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である。)は、中東地域に広く見られるハン マームの伝統に連なる。逆に、中東、アラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイ メージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。 近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西欧文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの 近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結びついてトルコ独自の歴史を歩んできた。 こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術な どいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの 遺跡が長らく管理者すら置かれない事実上の放置状態に置かれてきた。近年は、いくつかの有名なギリシャ・ローマ時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化さ れて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は 財政事情もありほとんどまったく手付かずの状態である。
祝祭日
1月1日 元日
4月23日 国民主権と子供の日
5月19日 アタテュルク記念と青少年とスポーツの日
8月30日 戦勝記念日
10月29日 共和国記念日
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